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発熱と桃のゼリー

「冷たくて、きもちーねぇ」

 額のヒンヤリとした感覚が心地よく、間抜けな声を出してしまった私とは対照的に、仗助くんの表情はしかめ面だ。無理もない。仗助くんだって、折角の休日を私の風邪の看病に費やすなんて思ってもいなかっただろう。

「先輩さあ……」

 仗助くんから説教を聞いてしまったらいたたまれなくて消えたくなってしまいそうだから、話題を変えることにする。

 

「仗助くんが買ってきてくれたコンビニの袋の中から、桃のゼリー出してもらってもいいかな? 食べたくなっちゃった」

 そう言うと彼は、桃のイラストが描かれたゼリーとプラスチックのスプーンを、買い物袋からガサガサと取り出した。表情はまだ曇っている。これは話題を逸らすことに失敗してしまったかなあ。遊ぶ約束をした年上の女が、時間になっても現れないと思ったら風邪で寝込んでいるなんて、みっともない。あの優しい仗助くんでさえ、幻滅してしまったのかもしれない。

「先輩、体調悪いなら連絡してくださいよ」

「ごめんなさい。昨日の夜には熱があったんだけれど、夜中に電話をしたら迷惑だと思って」

 仗助くんの顔は、先程よりも険しいものになっている。眉間のシワが深い。仗助くんの前では憧れのお姉さんでいたかったのだけれど、どうも逆効果だったようだ。

「先輩の電話なんて、メーワクな訳ないだろ。そうじゃあないんスよ。待ち合わせの時間になっても先輩が来ないから心配になって……電話しても通じないし、なんかあったのかと思って慌てて家まで来てみたら、風邪引いて寝込んでるんだもんよォ」

「遊ぶ約束してたのに、私の看病なんて申し訳ないデス」

 連絡のつかない私を心配してくれた仗助くんは、一人暮らしの私のアパートを訪ねてくれた。そこでベッドにダウンしている私を見つけ、慌ててコンビニでおでこに貼る冷却シートやゼリーや栄養ドリンクなどを買ってきた。そして苦しそうな私を放っておけなくなり、看病をしてくれている。

「だから、先輩の看病もメーワクなんかじゃあないんスよ。そうじゃなくて、もっと俺を頼ってほしいって話」

 仗助くんは、最近私に敬語だけでなくタメ口を使うようになってきた。年下のくせに生意気な! とは全く思わない。距離が近くなったような気がして嬉しい。敬語の仗助くんは可愛らしいけれど、タメ口の仗助くんはカッコよくてドキドキしてしまう。

「今でも頼ってるよ。こうして看病なんかしてもらっちゃってるし」

「いや……看病できてるのは正直ラッキーっつーか、そうじゃなくて!」

 しょぼくれたゴールデンレトリバーのような目付きで、仗助くんが私を見る。もしも仗助くんに尻尾が生えていたら、ペタンと床でうなだれているに違いない。

「風邪引いたんなら、真っ先に俺に電話してくれよ。アンタ、一人暮らしなんだろ? 昨日の夜からずっとつらかったのに、俺が駆け付けたの今日の午後三時じゃあないっスか。もっと早くから看病したかったんスよ」

 仗助くんのぼやきを要約してみる。

 つまり、彼が不機嫌なのは、風邪で身体がしんどいのに私がなかなか連絡をしなかったからということか。

 なんで? そんなにダメな大人だと思われているのだろうか? 鼻が詰まってボーっとした頭で考えてみる。仗助くんは私の世話をしたかった、とか?

 しかし、世話を焼きたい理由が分からない。彼は友人が病気になったら、誰にでも看病したがる性格なのだろうか。

 仗助くんが、ぶどうヶ丘高校の女の子の看病をしている姿を想像してしまった。欠席していた女の子が気になって、学校で配られたプリントを持ってお見舞いに行く仗助くん。私にしてくれたように、冷却シートを貼ってくれる仗助くん。大いにあり得る話だ。だって仗助くんはとても気遣いができる男の子だから。

 彼が誰にでも親切なのは承知しているのに、どうしてだか胸の真ん中が軋む。これじゃあまるで嫉妬ではないか。私と仗助くんは、ただの友人だというのに。

「先輩? ボンヤリしてるみたいっスけど、熱上がっちゃいました?」

 仗助くんの手が私の額に伸びる。冷却シートが剥がされたと思ったら、そのまま彼のおでこが私のそれにくっついた。顔が、近い。

「熱は上がってないみたいっスね。ほら、ゼリー食べてください」

 額同士をくっつけて熱を計測するなんて、母親にしかしてもらったことがない。整った美しい顔が急に近付いたら、心拍数が上がってしまった。仗助くんにとっては普通なのだろうか、と彼を盗み見る。

 彼の頬がほんのり赤い気がするのは、私の見間違いだろうか。照れるくらいなら、やらなければいいのに。頭をグルグルと駆け巡る疑問やモヤモヤを晴らすために、私はゼリーを食べようとした。そうしたら、目の前に驚きの光景が広がっていた。

「先輩、あーん」

 仗助くんは、ゼリーの乗ったスプーンを私の口に向けている。しかも「あーん」なんて効果音つきで。食べさせようとしてくれているのは、一目瞭然だ。

「じょ……じょ、仗助くん?」

 戸惑いから、上擦った声を出してしまう。しかし仗助くんは、私の目をじっと見つめたまま、口元のスプーンを動かすことをしない。

「先輩、ゼリー食べたいって言ったじゃあないっスか。ほら、あーんっスよ!」

 仗助くんはニコニコと笑顔を崩さないけれど、そこには圧力を感じられた。絶対に私に食べさせるつもりだ。彼と過ごして分かってきたが、この高校生は少し頑固なところがある。

 諦めた私が、恐る恐る口を開けると、ツルンとしたゼリーが滑り込んできた。食欲が鳴く、昨晩から何も食べていなかったので生き返った気分だ。

「美味しい?」

 さっきまで不満タラタラといった表情だったのに、今の仗助くんはご機嫌だ。眉間のシワはすっかり消えている。

「オイシイデス」

「よかったっス。まだ食えるっスよね。はい、あーん」

 もしかしなくても、仗助くんは、私がゼリーを食べ終わるまでこれを続けるつもりなのだろうか。

「仗助くん、ずっと食べさせてもらうのは恥ずかしいんだけど」

「えー? そんなこと言わずに……。じゃあ、俺が先輩のこと心配したお詫びとして! ね? 仗助くんに、あーんってさせてくださいッ!」

 そう言われたら断れないではないか。遊びの予定を潰してしまった罪悪感から、私は再び口を開ける。ゴールデンレトリバーの仗助くんの尻尾は今、ブンブンと振られてちぎれそうになっている。出会ってから初めて見るくらいの満面の笑顔だ。

「仗助くん、楽しい?」

「ちょー楽しい」

 物好きな子だなあなんて思っていると、ゼリーの容器は空っぽになっていた。

「ちゃんと食べ切れましたね。偉い偉い」

 仗助くんの手が、再び私の頭に伸びる。冷却シートを貼ってくれるのだろうかと思ったら、その手は私の頭上に落ち着いた。そのまま、ワシワシと頭を撫でられる。

「あんまり大人をからかうんじゃあありません」

「からかってなんかないっスよ。全部食べられたご褒美ってヤツです。それに、先輩に甘えてもらったって思うと嬉しくて」

 再び仗助くんが私の頭を撫でる。一定のリズムが心地よく、さっきまで犬みたいだったのは仗助くんだったはずなのに、今度は私が犬になったような気分になる。

「本当は、口移しで食べさてあげたかったっスけどね」

「もう! 馬鹿!」

 口移しされるシーンを想像してしまい、恥ずかしさのあまり布団に潜り込む。冗談だとしても言っていいことと悪いことがある。病人をからかうなんて悪趣味だ。

 視界を遮られた布団の中で、ふと冷静になり、今の自分の姿に気が付いてしまった。私は今、パジャマ姿にスッピンじゃあないか! なんて姿を彼に晒してしまったのだろう。羞恥心が身体を支配していく。今さらだけれど、仗助くんに合わす顔がない。

「先輩、そろそろ布団から出てきてくださいよオ」

「……スッピンだから嫌です」

 布団越しに、仗助くんの笑い声が聞こえる。こっちは真剣に落ち込んでいるんだぞ。それを笑うだなんて。

「スッピンも可愛いから気にしないでください。それに、いつもと違う先輩が見られて役得っス」

 歯の浮くような台詞に、私は思っていた疑問を口にする。

「仗助くんって、誰にでもそうなの? 病気の人には誰にでもお世話して、誰にでもゼリーをあーんってして、誰にでも可愛いって言うの?」

 突然視界が明るくなった。仗助くんが勢いよく布団を剥ぎ取ったのだ。顔を見ると、また最初の不機嫌な顔に戻っている。

「マジでそれ言ってるんスか」

 声がいつもよりも低い。怒らせてしまった。仗助くんは深いため息を吐いて、私に問い掛けた。

「じゃあ俺も聞きますけど、先輩は、突然来た男は誰でも平気で家に上げるんですか?」

 予想外の質問だった。確かに、だらしのない格好を見せてしまった自覚はある。しかし仗助くんだからこそ、安心して家に招いたのだ。彼以外の人が急に看病しに来たら、断るに決まっているではないか。流石の私も、警戒心くらい持ち合わせている。

「仗助くんは特別だよ」

 それを聞いた仗助くんの表情は、みるみるうちに柔らかいものに変わっていく。また、私の頭が撫でられている。今度は、慈しむようにゆっくりと。

「俺も同じっスよ。先輩は特別なんです。つきっきりで看病したいのも、あーんってしたいのも、可愛いっていうのも、アンタだからだよ」

「……そっか」

 仗助くんの言葉に、安心している自分がいる。そして、私の今までの疑問が一気に解消されていった。どうして仗助くんのことを思うとモヤモヤしたり、ドキドキしたりするのか。どうしてタメ口で話されると嬉しくなるのか。それは、私が仗助くんを好きだからだ。年の離れた友人としてではなく、異性として。

「私、仗助くんのことが、好きだよ」

 恋心に気が付いたら、いつの間にか言葉は溢れていた。仗助くんは驚いた様子で立ち上がり、すぐにヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。

「もー……告白は俺からするって決めてたのに」

「それって」

 仗助くんの両腕が私のワキに入る。そのまま力尽くで、でも丁寧な手つきで私を抱き起こした。仗助くんの顔が、ゆっくりと近付く。また熱を測られるのだろうかと思ったら、唇にふんわりと柔らかい感触があった。

「好きです。大好きですよ、先輩のこと」

 唇が、熱い。キスの経験がないわけではなかったが、こんなにもじんわりと優しい気持ちになれるものは初めてだった。仗助くんの骨張った指が、私の唇をなぞる。

「ファーストキスはレモンの味だって聞いてたんスけど、桃の味でした」

 ペロリと舌を出す仗助くんが妙に色っぽくて、体温が上がった気がした。この病が治るのは、当分先になるかもしれない。この恋の病が一生続けばいいのになんて仗助くんに言ったら、子どもっぽいと笑われてしまうだろうか。

「私でいいの? 仗助くんカッコイイし、私なんかよりお似合いの女の子、いっぱいいるよ?」

「いい。アンタがいい。カッコイイ俺は、先輩の前だけで十分っス」

 強く抱き締められ、身体が密着する。厚い胸板の奥から聞こえる鼓動の音が、私を安心させる。おずおずと仗助くんの背中に腕を回せば、彼がピタリと固まった。

「俺、幸せすぎてどうにかなりそう」

 それは私も同じだよ、と言おうとしてやめた。きっとこの気持ちは、何も言わなくても彼に伝わっていると思ったから。

 

 

 

2019/11/2 初出

​2020/12/13 加筆・修正

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